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2024年4月10日水曜日

散策の会:目黒庭園美術館から赤穂浪士泉岳寺を経て高輪ゲートウエイ駅へ:結果報告

 (第22回)武蔵野三田会散策の会

目黒庭園美術館から赤穂浪士の泉岳寺を経て高輪ゲートウエイ駅へ

3月29日は天気予報通りの強風と大雨で、傘を壊しちゃった、びしょ濡れになっちゃった等とボヤキながらも定刻に集まった13名(1名は目黒駅で合流)。午後から晴れるという予報を信じて出発‼ 散策順路は雨を避けて白金台にある「港区立郷土歴史館」の見学から始めることにしました。

港区立郷土歴史館(港区白金台4-6-2設計者は東京大学建築学科教授で安田講堂などを設計した内田祥三(うちだよしかず)で東大の安田講堂にも雰囲気が似ています。特徴のある建物ですからCMやTVドラマ、結婚式の記念撮影などにも使用されているようです。建物に入って女性陣の第一声が「ステキ‼」でした。そこでまずは新内閣お披露目のように全員で記念撮影です。

この建物は、関東大震災の後にロックフェラー財団の支援・寄付を受けて昭和13年に公衆衛生院(国民の保健衛生に関する調査研究及び公衆衛生の普及活動を目的とした国の機関)として建てられたゴシック調の建物で、現在は港区立郷土史歴史館(平成30年=2018開館)となっています。   建物自体としても大変価値のある建物ですが、常設展示室として三つのテーマで展示されていました。

    港区の歴史を環境・貝塚・内湾漁業のテーマで紹介する「海とひととのダイナミズム」

    江戸の城南に位置する港区を、まちづくり・武家地・寺社地・町人地と人々の姿を紹介する「都市と文化のひろがり」

    港区の近現代の歴史を、国際化・教育・交通・運輸・産業・災害・戦争などの視点で紹介する「ひとの移動とくらし」

展示物をいくつか挙げてみると伊皿子貝塚遺跡の発掘調査の報告として貝塚の状況や発掘した土器などや安政5年にアメリカ・イギリス・フランスなどと結んだ通商条約、イギリス公使館であった高輪の東禅寺を勤王佐幕の浪士が襲った時の状況、福澤先生が著した西洋事情・慶應義塾の設立の目的や塾生の身分証・学生証なども展示されていました。

カフェ・ラボエム
貝塚と出土品
歴史館の見学終了後には予報通り雨が上がっていました。「プラチナ通り」と白金らしい通りをブラブラとお昼のレストラン「カフェ・ラボエム」に向かいました。
美味しいパスタ・ピッツァとイタリアン料理、ワイン・ビールを楽しむ人もいました。




お昼が終わって外へ出ると、なんと太陽が照って散策日和です。道すがら桜の木にも開花が見られました。

庭園美術館(港区白金台5-21-9 国の重要文化財)

1910年代から30年代にかけてフランスを中心にヨーロッパを席巻したアールデコ様式を取
り入れて建設された旧朝香宮邸・庭園を使用した東京都の美術館です。
朝香宮は昭和天皇の皇后(香淳皇后)の祖父に当たる方で、1925年(大正14年)にパリで開かれた国際博覧会(通称「アールデコ博覧会」)に感銘し帰国後アールデコ様式を取り入れた邸宅を1933年(昭和8年)に建設、昭和22年の皇室離脱まで朝香宮家の人々が住んでいたとのことです。その後は吉田茂外相兼首相の公邸あるいは国の迎賓館として使用され、また一時期民営の「白金プリンス迎賓館」として結婚式場に使用されていたこともあったそうです。1981年(昭和56年)に東京都の所有になり1983年に東京都庭園美術館として一般公開され、2021年(令和3年)に東京都庭園美術館条例が施行され美術館として再スタートしています。現在「開館40周年記念旧朝香宮邸を読み解くA to Z」が開催されていまが、今回は庭園のみの散策を行いましたが庭園美術館の名に恥じない美しい芝のお庭、日本庭園、西洋庭園をのんびり散策しました。

時間も押してきたのでお隣の国立科学博物館附属自然教育園」は、またの機会に譲って地下鉄で白金高輪駅へ向かいました。

立行寺(智光山立行寺 港区白金2-2-6 別名「大久保寺」)

白金高輪駅を降りるとすぐに講談・映画などで「天下のご意見番」として著名な徳川家旗本の大久保彦左衛門が寛永7年に創建したという智光山立行寺がありました(元々は麻布六本木にあったが寛文8年(1668)旧地が火災にあったため現在地に移転してきたとのことです)。境内には鞘堂付きの大久保彦左衛門の墓(文化財)および魚屋の一心太助の立派な墓がありました。
立行寺山門
大久保彦左衛門の墓

一心太助の墓












旧細川邸の椎の木(巨木)

港区役所の支所の建物を活用したエレベーターを利用し、肥後熊本藩細川家の下屋敷にあった巨木(元々は樹高10.8m、幹回り8.13m、幹の下部に大きな空洞があったため昭和56年に大規模な手術が行われたとのこと)を眺めながら泉岳寺に向かいます。

大石良雄外十六人忠烈の跡

泉岳寺に向かう途中、大きな都営マンションの通路かと思うところを入ると大石良雄外十六人忠烈の跡が保存会によって保存されていました。もとは肥後熊本藩細川家の下屋敷の一部ですが、この場所で元禄16年(1703)2月4日に赤穂浪士の大石内蔵助、吉田忠左衛門、小野寺十内、原惣右衛門等16人が切腹したそうです。ただし、私有地のため門の外からの見学になりました。なお大石内蔵助の子息大石主税は現在三田にあるイタリヤ大使館のところにあった伊予松山藩の屋敷に預けられていたためこの場所では切腹していないとのことです。

高輪皇族邸(港区高輪1-14-1

また大石良雄外十六人忠烈の跡の向かいには、広々とした「高輪皇族邸」が高い塀に囲まれてありました。ここも元々は熊本藩細川家の下屋敷跡の一部で、明治以降旧高松宮邸として使用されていました(大正時代に昭和天皇が皇太子時代に一時期住んでいたこともあるようです。)。戦後は貿易庁の迎賓館として使われていたこともあったようです。2005年以降は無人のままでしたが2019年平成天皇が退位し上皇になられたことから仙洞仮御所として使用されていました。
今年4月26日に改修が終わった旧赤坂御所(仙洞御所)に上皇ご夫妻は移られていますが門の脇には上皇后が植えられたという薔薇(プリンセス・ミチコ;四季咲きのオレンジ色の薔薇)がありました。いよいよ伊皿子坂を下って最終目的地の泉岳寺に向かいます

皇族邸正面門

薔薇(プリンセス・ミチコ)

記念樹の説明板


泉岳寺(萬松山泉岳寺 曹洞宗 港区高輪2-11-1

浅野内匠頭のお墓や赤穂浪士四十七士のお墓があることで有名なお寺ですが、このお寺は慶長12年(1612)に徳川家康が今川義元の菩提を弔う為に(家康は幼少期に今川義元のもとに人質として預けられて育てられた)江戸城に近接する地に今川義元の孫を開山として創建されたが、寛永18年に火災よって伽藍を焼失したため、三代将軍家光の命により現在の高輪に移ってきたという歴史を持ったお寺だそうです。またお寺の名称については、山号は松平(東川の旧姓)の松に因んで「松萬代に栄ゆる」を意味し、寺号は徳川家が源氏の出自

浅野内匠頭の墓

を称しているので「源の泉、海岳に溢るる」として徳川家の盛隆を意味しているとのことです。なお、浅野家の菩提寺になっている理由は、高輪への移転に際して毛利・浅野・朽木・丹羽・水谷(みずや)の5大名が尽力して完成させたことから、泉岳寺はこの5大名の菩提寺になっているとのことです。
山門を入り先ずは本殿に御参りし、内匠頭の切腹時の血がかかった「血染めの石」、吉良の首を洗った「首洗いの池」、「天野屋利兵衛顕彰碑」などを見て、「浅野内匠頭とその妻の瑶泉院の墓」や「四十七士のお墓」に御参りしてきました。ところで何故内匠頭が吉良上野介に斬りかかったのかということですが、内匠頭は即日切腹を命じられ罪人として預けられた関藩田村家の庭先で切腹したのですが、切腹するときに家臣達に事情を書き残したいとして紙と筆を求めたが書面で残すことが許されず口頭で話す内容を田村家の者が書きとる形になったとのことですが、その内容が「予てより知らせておこうと思ったがその暇もなく今日のことはやむを得ないことである。さぞや不審に思っていることだろう」という謎めいた文面だそうで詳しい理由は分かっていないそうです。
泉岳寺参拝で今回の散策を終了し高輪ゲートウエイ駅へ向かい三々五々帰路につきました。

お疲れ様でした!


なお、高輪ゲートウエイ駅はオリンピック会場の国立競技場を設計した隈研吾氏の設計によるJR山手線の30番目の新駅で、現在の駅舎はオリンピック・パラリンピック開催に合わせて暫定開業したものだそうです。現在駅の周りは大きなビル等の施設の建築ラッシュで残念ながら駅の外観は見にくくなっていますが駅構内は斬新なデザインになっていました。

駅構内
改札口


ギャラリーページ (一部に当日以外に撮影したものがあります)

散策 「目黒庭園美術館から赤穂浪士泉岳寺を経て高輪ゲートウエイ駅へ

先ずは港区立郷土歴史館を散策

参加者一同
エントランスホール
結婚式の記念撮影にも使われます


エントランスホール天井

建物全景(東大安田講堂に似ている)
講堂も散策しました




雨も降り止みました


さあ! 待ってました 美味しい食事だぞ






サラダは山盛りでし(食べいてる途中で撮りました)

  レストランはお洒落な建物 さすが白金台ですね!


桜はまだかいな(散策中)

染井吉野桜はちらほら

枝垂桜と雪柳は満開

道端にはネモヒラ

庭園美術館とその庭園

建物全景


玄関の狛犬(獅子?)とカーヴィンググラス




庭園を散策しました









旧熊本細川藩邸の巨木「くすの木」



大石内蔵助外十六人忠烈の跡切腹場所は座敷ではなく庭先です


高輪泉岳寺曹洞宗;萬松山泉岳寺


浅野内匠頭の墓

吉良上野介の首を洗った井戸

大石内蔵助の墓





大石主税(内蔵助の息子)の墓



義士たちの墓(名札がついていました)

以前のお墓は名札がなく写真の様に

誰のお墓か分かりにくいものでした


季節はようやく春めいてきたのですが、今年の桜は例年になく咲き始めが遅く全体として2分~3分咲きでした。当日の朝は雨・風が強かったことから散策順序の変更・一部削除せざるを得なかった事もありましたが楽しく終了することが出来ました。有難うございました。次回もまたよろしくお願い致します。
                                          

      
文および写真:散策の会会員 梅川芳宏(1962法)